求めているつもりはないけど、無意識に求めてしまっている「見返り」。
今日は『見返りを求めない生き方をすると人生がとっても楽になる!』というテーマです😊
「見返り」の根底にあるもの
どうして人は「見返り」を求めてしまうのでしょう。
褒められたい、認められたい、感謝されたい、自分の価値を感じたい・・・
地位や権力を得たい人もいるし、「あなたがいてくれて助かった」「あなたのおかげでうまくいった」って言われることで自分の存在価値を見出している人もいます。
人によっては、お金やお返しが欲しいなど物質的な不足を埋めたい、ということもあるよね。
それから「私はここに存在してるんだぞ」「私は価値がある人間なんだ」「私も誰かの役に立っているんだよ」って訴えていたり・・・
そう、『見返りを求める』その根底には、自己肯定感の欠如や満ち足りていないという不足感が眠っているのです。
「見返り」を求めると、苦しくなる
友達に美味しいクッキーをあげたかったからプレゼントしたら、喜んでくれた。
これどちらもハッピーですよね。WinWin✨
ではこちらはどうでしょう?
友達に美味しいクッキーをあげたくてプレゼントしたら、「ありがとう。でもダイエット中だからせっかくだけど気持ちだけ受け取っておくね」と拒まれた。
「なんだよせっかく買ったのに」と思う人もいるかもしれませんし、「タイミング悪かったな、自分で食べるかぁ」と受け入れる人もいるかもしれません。
美味しいクッキーをプレゼントしたら喜んでくれた。帰宅後に改めてお礼があるかと思い、待っているけど連絡が来ない。
これ友達はハッピー、でもあなたはちょっとアンハッピー。だって“帰宅後のお礼“がまだ来ない。
相手が喜んでくれた、それだけで十分。なのに・・・
感謝をもっとちょうだい!私に対してもっと感謝して!って求めてるんですね💦
「そんなことない」と思うかもしれませんが、ほとんどが潜在的な部分で求めていて、あなたの中のなんらかの“不足“を他人からの感謝で埋めようとしているのです。
寂しい、認めてほしい、求めてほしい、私は価値がある人だって言ってほしい・・・と。
でもちょっと待って。
ここでの行為はただ「クッキーをあげたかった」です。もうちょっと付け足すと「友達をハッピーな気持ちにしたかった」ですよね。
つまり本質はただそれだけ、なのです。
それだけなのに、相手が喜んでくれたら嬉しい、ということ以外の「見返り」「相手の反応」を求めてしまうとエゴが強くなり、苦しくなってしまうのです😔
“それでも善い行いを続けなさい“〜マザー・テレサ〜
マザー・テレサの言葉の一つにこのようなものがあります。
今日善い行いをしても、次の日には忘れられるでしょう。
マザー・テレサ
それでも善い行いを続けなさい。
自分がしたいからする
誰かの役に立ちたいからする
誰かの喜びになりたいからする
自分の成長のためにする
主語はいつでも自分。そうしたら、スッゴク楽。
期待通りの答えが返ってこなくても「まぁ、自分がやりたかっただけだしね」って納得できる。相手の反応が気にならなくなってくる。
「相手に〜してもらうために」「普通はこうするでしょ」だと、そうならなかったときに苦しい。だって人をコントロールすることはできないもん。
立ち止まって、意識のベクトルの向きを確認しよう
大丈夫、あなたはそのままで既に十分素晴らしい存在です。
もし心に穴が空いているなら、他人に埋めてもらうよりも自分で埋めたほうがいいよね。
だって他人の言動によって一喜一憂してたら疲れちゃう。上にも書きましたが、他人をコントロールすることはできません。無理やり言わせたりやらせても虚しいし、そのうち歪みが出てくる。
だから自分で自分のご機嫌を取った方が簡単なんですよね💓
見返りを求めている自分に気づいたら「本当はどうしたかったのかな?」に立ち返ってみましょう。
本当に自分が求めているもの、なんのためにやるのか、自分の意識のベクトルがどこに向いているかをちょっと確認してみてくださいね😊
見返りを求める行動をやめていくと、無駄なエネルギーの消費も減るし、自分の本当の気持ちと一致した行動ができるようになってきて、本当に楽になっていきますよ!
シンプルに生きよう✨
コメント